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上智のいまを発見

【先生コラム】東大作 原爆、野球、ESS、そして留学

2025.07.02

大学の中と外で、いまおきているあれこれを紹介する「上智のいまを発見」。
普段の授業では知れない学生時代のエピソードなど綴っていただく「先生コラム」の第22回目をお送りします。先生コラムは教員から次の教員をご紹介いただくリレー形式でお届けします。
今回は、木村護郎クリストフ先生(ドイツ語学科)からのご紹介、東大作先生(グローバル教育センター)から寄稿を頂きました!


原爆、野球、ESS、そして留学

木村先生から、私の「原点を」ということでバトンを頂きました。あまり大げさにならないように、分かりやすく書いてみたいと思います。

両親の原爆体験

私は現在、「和平調停」と「平和構築」を専門に、調査や研究、教育に携わっています。つまり、戦争をしている国や地域を、「和平調停」によってどう停戦に持ち込めるか。さらに停戦後、どうすれば戦争に戻らず、より持続的な平和を構築することができるのか(これを「平和構築」と呼んでいます)という問いが、私の一生のテーマです。

なんでそんなことに興味を持つようになったかというと、比較的単純で、私の母親も父親も、1945年8月6日に広島で被爆しました。父の父親(私の祖父)は原爆で死亡し、3歳で父親を亡くした私の父は、母親(私にとっては祖母)の手一つで育てられました。また母親の、母親(私のもう一人の祖母)は、長く原爆症に悩まされ、10年ほどひどい血便に苦しみ、髪の毛も全て抜けたことがあったと聞きます。その後、かなり回復したのですが、被ばくにまつわる悲惨な話を、私は、母親やその親戚、祖父母から聞いて育ちました。

被爆して、母方の祖父は、学校の先生などを務めながら、長く核兵器廃絶の運動に携わっていました。在野の運動家としてはそれなりに知られた人で、三木武夫元首相に直接、他の運動家と共に会い、核廃絶を訴えたというような話も、子供の時から聞いていました。

また両親は、二人とも広島大学に入り、その弁論部で知り合ったので、二人とも社会問題について議論するのは好きな人で、それも私に影響を与えたのかと思います。

そんな家庭環境もあって、小学校のころから自由学習で、当時住んでいた横浜市緑区川和町の空襲で親を亡くした方にお会いして話を聞き、その体験談を文集に載せたりしていました。小学校6年生の時の作文では、将来の夢として、「少年野球の監督か、大学の先生になって平和運動をしたい」と書いていました。

(朝日新聞「フロントランナー」記事へのリンク)
https://daisaku-higashi.com/20180623-2/

野球と平和

他方で、小学校、中学校、高校の時に、最も打ち込んだのは、野球でした。少年野球で緑区で準優勝したこともあったのですが、東京都立八王子東高校にいたときは、軟式野球部のキャプテンで、キャッチャーを務めていました。

軟式野球は、硬式野球に比べると、はるかに参加校は少ないのですが、それでも都内には100以上の高校が軟式野球部を持ち、10回ほど勝たないと東京都大会で優勝できませんでした。都大会で優勝か準優勝しないと関東大会に行けないため、関東大会出場が、私の野球部の長年の目標でした。

私が高校2年の時に、一年上の先輩が都大会のベスト4まで進んだのですが、残念ながら準決勝で惜敗。ただその時八王子市で春の関東大会が開催されたため、ゲスト出場しました。そしたらなんと関東大会で優勝してしまったのです。それで一年先輩のキャプテンが優勝旗を高校に持って帰りました。

私は次の代のキャプテンだったのですが、先輩方のチームに比べるととても地味で、弱いチームでした。「これは、来年春、一人で優勝旗を返しにいくことになるかも知れない」と、本気で恐怖を覚えました。

ただ私のチームは地味ですが、コツコツ努力するタイプが多く、また最後まで諦めない粘り強さがありました。それもあって、2年生の秋の大会で何度か最後に逆転勝ちして、都大会で優勝し、秋の関東大会に出場できました。でもその準決勝で、逆に早い段階で大量リードして油断し、逆転負けをくらいました。

そのため、秋から冬にかけて、その雪辱をかけて、練習を続け、春の大会に臨みました。でも都大会の準決勝で、2点差で負けている中、最終回のツーアウトまで追い込まれ、絶体絶命になりました。「あー、やっぱり一人で優勝旗を返しに行くんだ」という思いがよぎりました。

でも世の中は分からないもので、その後、突然相手のピッチャーが変調をきたし、フォアボールやデッドボール、相手のミスなどで、なんと逆転してしまいました。そのおかげで、都大会も優勝でき、春の関東大会に出場。チームのみんなと一緒に優勝旗を返すことができました。その後、関東大会でも優勝できて、私は、優勝旗を持ってもう一度母校に戻ることができました。

1987年軟式高校野球春の関東大会優勝時

なんとなくその時の経験が、「最後まで諦めなければ、奇跡のようなことが起きる時もある」という考えを、私にくれた気がしています。

大学とESS活動

高校生の春の大会まで野球に専念していて、その後の体育祭でも友達に誘われて、応援団に入ってしまったりして、親からは随分怒られました。「大学に受からなかったら、予備校に行くお金は出さないから、夜学に通え」と父親からは脅されました。

ただ、(今もそうかも知れませんが)、詰め込み教育的なものの社会的意義がどうしても理解できない感じもあり、また正直、数学や理科など、理系の勉強は本当に苦手でした。地方に行きたいという気持ちもあり、地方の国立大学を二つ受けて、結局、東北大学の経済学部に入りました。法学部か経済学部かでとても迷ったのですが、当時は「軍縮の経済学」が流行っており、経済を学ぶことで、核軍縮に貢献できるのではという思いで経済学を選びました。

ただ幸か不幸か、大学に行く前にあまり受験勉強をしなかったので、「大学に入ったら勉強しよう」という気持ちだけは、ものすごくありました。

当時、東北大学は、カリフォルニア大学との交換留学があり、大学全体でその交換留学枠が一年に6枠でした(だから今の上智大学が750の交換留学枠があるのは、とっても羨ましいです)。

その枠に入りたいと、大学の授業も、よい成績を取るよう最善を尽くしました。また英語の勉強(TOEFLの勉強)なども毎日続けました。当時は英語のニュースを聞くことなどできず、「リスニングマラソン」という英語のニュースをまとめたテープを毎月定期購読して、ウオークマンで聴き続け、リスニングを向上させる努力をしました(今はBBCとかCNNのポッドキャストが、スマホでかつ無料でたくさん聞けます)。

それに並行し、ESS (English Speaking Society)というサークルに入り、2年目は部長を務めました。ESSには、1)ディスカッション、2)ディべート、3)スピーチ、4)ドラマ、があり、私は全てに参加しましたが、特にディスカッションの大会には毎週末、仙台から東京に夜行列車に乗って参加しました。ディスカッションでは、①問題の所在、②その深刻さ、③原因、④解決方法、をそれぞれの参加者が提示する必要があるのですが、これを2年間繰り返すことで、随分、論理的な思考方法が鍛えられた気がします。またESSの仲間との交流が、自分の学生時代の最大の財産で、またよい思い出になっています。

ESSの同期の仲間との合宿中の一枚(筆者は右から二人目)

当時は、年に一度、全国の大学のESSが参加するディスカッションの全国大会があり、全国から30人ほど、「ベストディスカスタント」を選ぶというコンテストがありました。東北からは10年くらい、それに選ばれた人がいないこともあり、それを目標に毎週、東京の色々な大学でのディスカッションの大会に参加していました。最後、全国大会で自分の実力以上のパフォーマンスができ、その「ベストディスカスタント」に選んでもらえたことは、学生時代のいい思い出になりました。

当時、東北大学のESSは、伝統的に東大のESSの人たちとも親しかったのですが、ディスカッションの様々な大会に毎週出ていたこともあり、その人たちとも親しくなりました。今も年に数回集まって、食事を共にしています。皆さん、省庁や銀行などで活躍されていますが、集まると何となく35年前に戻り、社会について熱く語り合ったりして、とても有難いご縁です。

カリフォルニア大学への交換留学

大学での最初の2年間は、ESS活動と勉学に専念し、その後、4年生の途中からの留学に申し込みました(当時はそれが唯一のタイミングでした)。なんとか6枠の一つに入り、カリフォルニア大学デービス校に、留学できることになりました。

自分なりに、留学後は大学院に行って、将来は国連などを目指したいと思っていたので、この留学中によい成績を取らなければならないという非常に大きなプレッシャーがありました。

でも、デービス校に行く前に、カリフォルニア大学アーバン校で1か月半ほど英語を学ぶ短期留学をしたのですが、その後、2週間ほど、アメリカの素晴らしい自然をキャンピングカーで回るツアーに参加し、少しそういった重圧から解放された感がありました。「たとえうまくいかなかったとしても、またこの自然に戻ってくれば、それなりに幸せじゃないか」と思えたところがありました。

その後デービス校で、主に大学4年生の授業を取っていたのですが、貧困削減を専門にしている先生の博士課程用の学生向けの授業があり、あまりに素晴らしい先生なので思わず取ってしまいました。夢中で勉強したのですが、やはり周りがみな、大学院生ということもあって、なかなかついていくのが大変で、毎日深夜まで勉強していました。

ただ最後、最終リポートを出したところ、なんと授業で2番の成績だと言われ、先生もびっくりしていました。「君は何者なの?」と聞かれ「学部の交換留学生です」と言ったら、次の学期で自主研究の指導教官をしてくれたりしました。

デービス校留学時代、生まれて初めて猛勉強しましたが、一つだけB+があり、あとは全てAを取得できたことが、その後の一つの自信になりました。

そのデービス校時代に、最初の留学生用カウンセリングにボランティアで来てくれていて、親しくなったのが、ベトナムからのボートピープルで、その後米国人になったアン・グエンさんです。ずいぶん一緒に勉強もしましたし、週末はスカットをしたり、彼女の車で、カリフォルニア大学バークレー校に行ってその図書館で勉強したりしました。その後、私は日本に戻り、彼女はバークレー校のLaw School(司法大学院)というものすごく難しい大学院に入り、今もカリフォルニア州で弁護士として活躍しています。ご主人もベトナム出身の方で、私も留学時代から仲良くしていました。ですので、社会人になってからも、私が家族を連れて、彼女の家に泊めてもらったり、彼女がご主人と一緒にお子さんを連れて日本に来た時も、一緒に旅行したりしています。

今ではグエンさんの二人の子供も独立し、2024年1月に、カナダのブリテイッシュ・コロンビア大学で講演に招かれた際、再度、彼女とご主人の家を訪れ、三日間ほど一緒に過ごしました。

アン・グエンさんリ・グエンさん夫婦と

留学の時に出会ってから、35年近く経ちますが、今も親友で、色々な人生の悩みも語り合える仲で、これも交換留学から頂いた大きなご縁でした。

その後の人生

1992年6月に日本に戻ったのですが、その当時は、まだ青田刈り禁止令があり、NHKのデイレクター職とアジア研究所には出願ができました。一応、両方とも採用を頂いたのですが、一度NHKのようなところで働いて、それから大学院に戻るのもよいのではと思い、NHKのデイレクターとして1993年4月から務め始めました。

5年ほど夢中でテレビ・レポートなどを作り続け、自分の提案でも、クローズアップ現代やNHKスペシャルを作ることができるようになり、1998年に自分の提案で企画制作した最初のNHKスペシャル「我々はなぜ戦争をしたのか~ベトナム戦争・敵との対話」を放送し、その年の放送文化基金賞も得ることができました。

子供のころから、戦争と平和の問題について、仕事をしたいと思っていたので、この放送を出せたことは嬉しかったです。番組は、国会などでも話題になり、当時の小渕首相も取り上げたりしていました。

その後、国内問題では、「縛られない老後~ある介護病棟の挑戦」 (1999年)、「犯罪被害者はなぜ救われないのか」(2000年)などのNHKスペシャルを企画・制作し、また国際紛争については「憎しみの連鎖はどこまで続くか~パレスチナとイスラエル」(2002年)、「核危機回避への苦闘~韓国、米朝の狭間で」(2003年)、「イラク復興 国連の苦闘」(2004年・世界国連記者協会銀賞)などを企画・制作する機会に恵まれました。

どれも自分で提案して、賛同してくれた上司が応援してくれて作った番組でしたので、そういった意味では恵まれた環境だったのですが、やはり子供のころからの、「専門家になって、直接、平和作りに参加したい」、という気持ち(まあ夢です)が捨てきれず、35歳の時に、同じNHKで務めていた妻と一緒に退職し、5歳の息子を連れて、カナダのブリテイッシュ・コロンビア大学の政治学でMAとPhDで学ぶ決心をしてカナダに渡航しました。

退職した時は、その先、どんな就職できるかも分からず、とても不安でした。でもやはりトライはしないと後で後悔するという思いが強くありました。また学生時代に交換留学をしていたことが、この決断にとっては大きかったです。その経験がなかったら、とても踏み切れなかったと思います。

大学院では政治学科を選んだのは、NHK時代の経験を踏まえて、自分がしたい平和作りの問題は、やはり政治学で学ぶことが一番重要だと認識したからでした。PhDの学生の時、2008年にアフガニスタンと東ティモールで現地調査を行い、その英語の報告書をボランティアで書き、国連PKO局から出版され、その後、日本語で「平和構築」(岩波新書)を2009年に出版して、それが自分の研究者としての最初の本になりました。その中で提案したアフガンでの和解プログラム作りに日本が主導的な役割を果たすという政策提言については、当時の外務大臣や外務副大臣、外務省の多くの局長や大使とも意見交換する機会があって実現することになりました。具体的には日本政府がアフガンの和解を支援するために50億円の拠出を発表し、国際的な和解プログラムとその和解ファンドが作られる契機となりました。

またNHKを辞めた後、ずっとアドバイスしたり、支援をしてくれていたのが、当時JICA理事長だった緒方貞子さんでした。緒方さんは、上智大学の教授を長く務められた後、UNHCR(難民高等弁務官事務所)のトップとして10年活躍され、その後、JICAの理事長になった方で、私にとっても憧れの人でした。カナダから日本に帰国するたびに1時間以上時間を取ってくれて、色々とご助言してくれたり、インタビューに応じてくれたりしました。「平和構築」という私の本を、色々な外務省の幹部に渡して、政策提言が実現するように応援してくれたのも緒方さんでした。

私は現地調査の後、私の調査を応援してくれた国連アフガン支援ミッション(UNAMA)の政務官にアプライしていたのですが、その後採用が決まり、2009年12月から2010年12月まで、カブールで勤務する機会に恵まれました。UNAMAの幹部も、私が個人的に努力してきたことを評価してくれて、UNAMAの和解・再統合チームリーダーに任命してくれました。

2010年UNAMA国連政務官時代

その意味では、研究者として現地調査をして政策提言したことが実現し、今度は国連の政務官として、その立ち上げに実務者として立ち会えることができたのは、とてもよい経験になりました。また、緒方JICA理事長がアフガンに来られた際、アフガンの当時の大統領や閣僚、国連代表などに、「東さんは非常に大事な専門家なので応援してあげて欲しい」と言ってくれたことは、非常に自分にとって励みになりました。

1年間のカブールでの任期が終わるタイミングで、たまたま公募が出ていて申し込んだ東京大学の大学院総合文化研究科准教授に採用が決まり、2010年1月から勤務を始め、講義をしながらPhD論文を書き続け、その後2012年8月にようやく、ブリテイッシュ・コロンビア大学の博士号を取得できました。

ちょうどそのタイミングで、2012年8月から2014年8月まで、大学と外務省の人事交流により、ニューヨークの国連日本政府代表部の公使参事官として勤務し、和平調停や平和構築を統括することになり、今度は加盟国の側から、国連の和平調停活動や平和構築を側面支援する経験ができました。その後、大学に復職し、上智大学グローバル教育センターにテニュアでお招き頂き、2016年4月に移籍し、それから上智大学でずっと和平調停や平和構築の調査を、アフガニスタン、南スーダン、イラク、東ティモール、シリア、イエメン、ガザ紛争などについて続けています。

2018年からは、日本の外務大臣の委嘱による公務派遣で、イラクや南スーダンにも何度か訪問し、現地での講演や、現地指導者との意見交換などを通じ平和構築に関与する仕事もしています。2023年9月から2024年2月は、ハーバード大学の客員教員として、これまでの調査や研究について、米国やカナダのいくつかの大学や国連本部などで講演をして、意見交換する機会に恵まれ、これもよい経験となりました。

2023年南スーダン・マシャール第一副大統領と

学生時代とまとめ

このように、八王子東高校、東北大学、カリフォルニア大学デービス校、NHK、ブリテイッシュ・コロンビア大学、国連アフガン支援ミッション、東京大学、国連日本政府代表部、上智大学、ハーバード大学と、色々な組織に所属して学んだり、仕事をする機会があり、自分で望んだわけではないのですが、「流転する人生」になってしまいました。

(私の経歴や本は以下のリンクにまとめています)
https://daisaku-higashi.com

ただ、一つ言えることは、子供のころから、希望していた「どうやったら戦争を止め、平和な国や地域を増やすことができるか」というテーマについては、どの組織に属しても、自分なりに努力をしてきたとは、言えるのではと思っています。

でも今、ウクライナ戦争や、ガザ紛争、イスラエルとイランの戦争、スーダン内戦など、世界中で軍事紛争が勃発し、その数は増え続けています。その意味では、自分の非力さや無力さを実感することも多いです。とにかく大学の教員として、自分にできることをするしかないと、日々自分を奮い立たせて仕事している感があります。

でも、どんなことでもいいのですが、何か自分が打ち込めるテーマを見つけて、可能であれば、それを自分の仕事にもできれば、それは極めて幸運なことだと思うのです。

ですから、どんなことでもよいですから(自分の花屋さんを作りたいという方もいるでしょうし、企業に入ってグローバルな経済社会で活躍したいという方もいると思います)、自分なりに追及するテーマを見つけて欲しいなと思います。上智大学での生活や学びが、少しでも皆さんが、そんなテーマを見つけるのに役立ってくれたらと個人的に願っています。

長くなってしまいましたが、そんな思いも込めて、こちらの文章を書かせて頂きました。

次回は、JICAで25年以上勤務された後に、上智大学に移籍された、梅宮直樹教授に、あえて大学に移籍された熱い思いを、語って頂きたいと思います!


次回は……

東先生から梅宮直樹先生(グローバル教育センター)をご紹介いただきました。次回の「先生コラム」もお楽しみに。