上智の略語、まとめてみました
2024.06.07
こんにちは♪ 記者クラブのノアです。夏休みも半ば、みなさんいかがお過ごしですか。皆さんの夏休みが充実して鮮やかなものになること願っています! さて8月15日は終戦記念日でした。第2次世界大戦は、私たちの通う上智大学にも大きな影響を与えました。戦争が他人事では捉えられなくなった世界の中で、常に戦争による犠牲の大きさを憶え続けていきたいと思います。戦争中の犠牲に加え、戦後も日本社会に暮らす人々の前には経済的、社会的な苦境が待っていました。上智大学に関わる多くの人々にとっても状況は厳しいものでした。今日はそんな第2次世界大戦直後の上智大学の変化と3つのトピックを肩に力を入れて取り上げたいと思います。(この記事はソフィア・アーカイブズ提供資料、『上智大学五十年史』と『上智大学史資料集』に依拠しています。)
第2次世界大戦時、米軍の空爆によって東京の多くの家屋が消失しました。上智大学のある四谷にもその戦火はおよび、現在の1号館をはじめとした校舎は神父や大学関係者の必死の防火の努力で大きな被害を免れたものの、現在の四ツ谷駅に面するエリアで家屋の消失がありました。
また戦争に際して学校に学生の通学しない「人のいない」キャンパスとなり、上智大学から学徒出陣した方の中から戦死された学生もいました。そんな戦争がポツダム宣言を経て終焉しました。
復員学生も含む新入生を迎え、ようやく学舎としての本来のあり方を取り戻し始めた上智大学は、終戦の翌年1946年には新たな試みを始めます。現在のFuture Design Platform推進室のプログラムに続く公開講座(当時)です。当初公開講座は、世界情勢や文学、語学をテーマとして開始されました。こうした公開講座は全国に上智大学の名を広めるきっかけとなりました。また開講式ではGHQ幕僚ウィロビー少佐が「アメリカの自由論」について語りかけるほか、上智大学ならではの人脈を活かした講座もありました。その中でも特に語学講座は好評で、英語会話の講座には1,500人もの希望者が押しかけたそうです。「英語の上智」そんなイメージを形作ることにも新たな試みは寄与したかもしれません。こうした状況は、戦後直後のアメリカの文化や言語に触れる機会を求める日本人のニーズの高さを表しています。現在も学生からビジネスパーソンまで幅広い人気を集めるNHKのラジオ番組『英語会話』は、同年(1946年)に放送を開始しています。
また焼失により民家がなくなった四ツ谷駅に面した土地を商社の経営者から購入し、その土地に現在の聖イグナチオ教会(1999年に建て替え)や大学の施設が新たに建設されました。
終戦と戦後処理を経て日本の学校制度に6・3・3・4制が導入されました。それに伴って予科制度が廃止されました。上智大学は、1948年に最も早い段階で新制度に切り替えて、新入生を迎えました。戦前上智大学は文学部に哲学科、文学科の2学科と商学部に商学科。専門部として経済科、商科、法科、新聞学科が設けられていました。新制大学の成立をきっかけとして、専門部が廃止され新聞科が文学部の新聞学科として、商学科が経済学部商学科となりました。日本人学生だけでなく、日本在住の外国出身の方を対象とした夜間学校として現在の国際教養学部の前身にあたる、国際部が1949年に開設されています。また1951年に大学院が神学研究科、哲学研究科、西洋文化研究科、経済学研究科の2研究科で開講されました。同年教職課程も設けられています。
先ほど出てきた公開講座について『上智大学五十年史』は、「これ(公開講座)は戦前から戦時中にかけておこなわれていたクルトゥール・ハイムでの集まりの発展ではあったが、(略)」としています(上掲資料)。この集いの中心人物であり、戦後GHQやマッカーサーと直接のパイプを持った人物が上智大学の理事も務めたビッテル神父でした。ドイツ出身の神父は1934年に来日し、1942年から1948年まで上智大学院長という責任ある立場にありました。戦前にも上智の発展のため国内外に活動を繰り広げ、アメリカでの上智大学復興運動支援にも大きな役割を果たしました。そうした活動やドイツからの寄付もあり、現在も残る1号館が建設されました。ユーモアや柔軟性に富んだ人物だったそうです。そんなビッテル神父は、戦後GHQやマッカーサーの信任を得て、度々彼のもとを訪れます。そこでのビッテル神父の発言が、戦後GHQの政策、特に宗教面での政策に影響を与えました。マッカーサーの信任を得て渡り合った人物としては、吉田茂の参謀的役割だった白洲次郎が知られています。私たち上智大学の理事を務めた人物がGHQのトップであるマッカーサーの信頼を得ていたこと、今回の文献、資料調査を経て大変驚きました(『マッカーサーの涙』朝日パノラマ社 昭和48年参照)
戦後日本は大変な食糧難でした。戦中にひもじい思いをしていた人々は、戦後も苦しい状況にありました。上智大学の学生も同じ状況で、大学側も一人でもそうした学生が勉強をやめずにすむよう日夜奔走していました。そんな過程で学生の下宿難に対応するため、1945年の10月には吉祥寺に新たな学生寮が設置されました。その一方で学生寮開設してもなお下宿難や空腹に苦しむ学生の多い状況に心を痛めたボッシュ神父(教授)は米軍からかまぼこ型の兵舎を払い下げられ、学生寮にする計画を中心となって進めました。1948年には80人もの学生を受け入れ、入寮式が行われました。設備の整ったこの場所で学生は勉学に打ち込むことができ、ボッシュ神父の名前をとってボッシュ・タウンと呼ばれていました。ボッシュ神父の彫像が現在も上智大学直営寮の枝川寮(東京都江東区)に残されています。
ここまで戦後直後の上智大学の新たな試みや制度の変化、そして戦後間もない上智大学を献身的に支えてくださった2人の神父の働きに触れました。現在は当時に比べると大学の数も桁違いに増加しました。その中でも上智大学は他に類を見ないオリジナリティーを持ち続けていると思います。私自身上智大学での学びを通じて大学の持つ国際性、多様性、そして精神性の陶冶に通じるプログラムの意義を身をもって感じてきました。国際性などといった特徴は戦前からすでに上智大学がもっていた特色かもしれません。その一方で、戦後の厳しい状況と米国を社会的、文化的な側面で受け入れるという転換期にあって、そうした上智大学の特色が際立った意味を持ったとも言えるかもしれません。その一つの表れが現在まで続くNHKの英語講座と同年に開始した上智大学の公開講座でした。そうした上智大学の魅力や独自性を形作ることに、戦後の厳しい状況からの出発やビッテル神父、ボッシュ神父の献身的な働きが一助を果たしていること、今回の記事の執筆を経て改めて感じることができました。
*写真は全てソフィア・アーカイブズ提供
2024.06.07
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